いつか、その日まで

わたしは、ここで

ドラクエ11で勇者になった。

 

途中までなんだけども!

興奮したので!書かせてください!

超楽しかった!!!!!!!!

以下ネタバレ

 

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あと何年生きたいと思うか

すごい質問をぶつけられてしまったので、

これも残しておこうと思う。

 

会社の中でタイトルのような質問をされた。

私は「考えたことがないですね」と答えた。

そうしたら「若いもんね」と笑われた。

いや、笑うといっても、嘲笑の意味は含まれていなかったのかもしれない。

でも私は、バカにされたような感じがして、

ムキになって

「いや、いつ死んでもいいとか、長生きしたくないって思ってるだけです」

そう答えてしまった。

 

この場合の正解は、絶対

「そうですね」と受け流すべきだった。

でも私は、ムキになって余計なことまで言ってしまった。

 

人が人に「死にたい」と言われることのイヤな気持ち、

めちゃくちゃ分かってて気をつけてるはずなのに、言ってしまった。

毎日毎日死にたいと、早く逃げたい、と思いながら這うように会社に行っているのに

それをなんだかバカにされたような、

そんな自分を否定されたような気がしてしまった。実際は違うかもしれないのに。

 

ネットに吐き出したり日記に書くことは自分の中で「許せるゾーン」だと思う。

でも会って話したりしているのに、死にたいって言われても

困るだけだと思う。それを肯定してくれる人は、同じ気持ちを抱えている人だけだ。

 

でももう自分じゃどうにもできない波にのまれて、

心臓ボッコボコに殴られたような感覚で、アザが出来まくって

血が止まらないような感覚で、それでも歩いているのに

それを隠すことが、どんなにしんどくて、

無意味だとわかっていながら、隠したくて仕方ないのに、

隠したいのにこぼれてしまうのがつらくて困っているのに、

バカみたいに、反応してしまった。

 

悔しい。

ただひたすらに悔しい。

 

人の痛みはその人にしか結局のところ分からない、

数値化ができない限り、理解してもらえない。

私も目の前の人が苦しんでいても、じゃあどうしてあげるのがベストなのかなんて

わからないし、私に出来ることは、話を聞くことぐらいだ。

でも私は話を聞いて欲しいわけじゃなくて、じゃあなんだっつーと

私の存在を肯定して欲しい。努力も何にもしてない私でも。

それがめちゃくちゃ難しいってことは分かっていて、

私はそれをして貰えないことを分かっていて、

それでも求めてしまう。だから自分がバカなのだと、思い知らされる。

 

人がどのような時に死にたいと思うかは、その人の自由であり、

死ぬことに対して、それを止めることは、誰にも出来ない、

その人自身の最後の「自由」だと思う。

よく自殺はいけないっていうけれど、悲しむ人がいるから、というけれど、

うるせぇ!今つらいんだよ!って思うし、

じゃあその悲しむ人が私を救ってくれよ!って、私は、思う。

悲しむ人なんて本当に居るのかよ、綺麗ごとすぎるよ。

だって本当に悲しむ人がいるって分かって、それが歯止めになるなら

そんな選択はしないと思う。

 

この先、生きてって幸せになれることがもしかしたら、あるかもしれないけど

ないかもしれない。それぐらい絶望したら、どうしたらいいんだ。

今苦しいんだよ。今、頑張れないんだよ。

いつかのことなんて、今、見えないんだよ。

今、救いがなくて、苦しくて涙を流してるんだよ。

 

いつか幸せになれる、なんて慰めじゃなくて、今幸せになろう、って言って欲しい

 

「ああしてほしい」「こうしてほしい」他力本願の思考を責める前に

じゃあどうしたらいいか、言うとおりにやるから、教えてほしい。

思いつかないんだ

「責任を負う」のがつらいわけじゃなくて「責任を押しつけたい」んじゃなくて

「思いつかない」んだよ。方法が。甘えだと言われたらそれまでなんだけれど。

立ち上がるちからも取られて、出会える仲間もいなくて、

その場にうずくまる人を蹴ることは、正しいといえるのだろうか?

 

苦しいって言葉すら呟くことを許されないのであれば、

もはやそこに自由なんてないと思う

勝手に想像してごめんね。

と、始めに謝っておけば許されるものではないのだけれど、

私は私が思ったことを、書いておくことがこのブログの存在意義でもあるので

残しておきます。

 

basement-times.com

 

この記事を読んだ。

私は当日ライブ会場にいなかったし、

そもそも前提として、大森靖子ちゃんの破滅的でもある

どうしようもない叫びのような「言葉」に惹かれている。

でも、引力が強すぎて、私が壊れてしまいそうな気がして、

大森靖子ちゃんを直接フォローはしていない。

なんとなく、ふわっと音楽を聴くだけだ。

そして、失礼ながら、Yogee New Wavesは存じ上げないので

どんな音楽か、どんな人たちなのか、今回をきっかけに知った。

つまり、私は「なんかあったんだろうな」

ぐらいにしか認識していなかった。LINEブログはちらっと見た。

私の身の回りで、この記事に書かれているような

「これにかこつけた言い争い」みたいなものは当然起きていなかったので、

一体何が起こっているのかわからなかった。

私の周りはすごく平和である。(私は火の中に飛び込んでいくタイプだけれど。)

それがようやく昨日、モヤモヤしていたものがすっきりする。

Yogeeサイドの謝罪文が上げられたからだ。

それで色々状況がわかってきた。

そして今日、この記事に出会って、「ああ、なるほど」とスッキリした。

 

大森靖子ちゃんの音楽とは別に、個人的な意見としては、

「音楽は魔法であってほしい」と思う。

音楽は私を救ってくれる存在であり、誰かを救ってくれる存在であり、

楽しくさせたり、悲しくさせたり、そんな意味で「魔法のようなもの」だと

私は思う。

多分靖子ちゃんが「音楽」で自分を表現することにたどり着いたのは

いつか魔法だと思ったことがあって、誰よりもそれを望んでいるけれど

そうではない現実にぶつかったりして、ぐちゃぐちゃになって、

「音楽は魔法ではない」という言葉に、色んな感情を詰め込んだんだと思う。

 

アーティストというのは心を作品に全て注ぎ込むものだと思っていて、

心を削ったり磨いたりして出来たものが「作品」で

だからファンである私は心を動かされたりするんだと思う。

人の、むき出しの感情を浴びて、心を動かされないのは難しい。

 

Yogeeさんたちはきっと、明るい人たちなんだと思う。

影はあっても、それをうまく隠せて、イエーイ!って言ってごまかせる、

それは強さであって、人を救える明るさだと思う。知らんけど。

だから「音楽は魔法!」だなんて多分、ぺろっと言えてしまったんだと思う。

それが故意だろうが偶然だろうが、今回のことはきっと問題ではないので、

本当に多分、ある意味「運が悪かった」だけなんだろう。

 

すごく身も蓋もない言い方をすれば、

メンヘラと、メンヘラに理解のないウェーイ系がぶつかってしまった事故、

なんじゃないかなと、傍から見ている私は思う。

どちらを貶すつもりもないんだけれど。

 

 

もしこれが私が、大森靖子ちゃんの立場だったら、

同じように、あるいはそれ以上、怒っていたかもしれない。

きっと自分が否定されていることに慣れているつもりでも、

なんでこんな目に遭わなければならないんだ!と思ってしまうかもしれない。

 

私の持論や推論なんて本当にどうだっていい話で、

きっとこうやって好き勝手言われるのも嫌だろう、どっちからしても。

私は多分、喧嘩してるファンたちよりも厄介な存在だ。

 

でも自分に置き換えて、自分の言葉や、自分の価値観を、不慮の事故で

傷つけられたりしたら、誤解のあるようなことがあったら、

きっとそれはすごくつらくて苦しいことなんだと思う。

 

このブログを書きながら音楽を再生している。

この音楽は魔法じゃない、かもしれない。

でも魔法になりえたかもしれない、これからなるかもしれない、

私にとって魔法になるかもしれない。可能性がある。

だから私は「魔法であってほしい」派だ。 おしまい。

無償

たとえば私が、こんな細々としたブログではなく、

一定数は保証された確実に人の目に止まる媒体で、

この本は面白かったです。と書く。

でも別に私には一円も入ってこない。

それが私のビジネスではないから。

 

じゃあ何の利益も生まれないこのブログで

何かを紹介出来たとして、このサイトが良いとか言えたとして

そこから広がるのか?というとちょっと疑問。

本当は企業や、宣伝をしたい人にとって、

どんなに広がらない人でも、何かしらリアクションを取ってくれるならば

嬉しい、と、 私がその立場でその存在を見つけられたのならば、

思う。

エゴサは好きではないんだけど。

感想を呟くのって、良い面でも悪い面でも正直に言いたいから、

エゴサは構わないけど、見てますよなんてアピールをされた日には、

勘弁してくれ><って思って好きなことがつぶやけなくなってしまう。

それは、嫌だ。

悪い面って言ったってたとえばライブとかだったら

「ここの時にそういえばうるさいお客さん居たね」とか

そんなレベルでしかないけど、そんなことを呟いても仕方が無いし、

でも私はその曲の時そのことを考えていたなーという気持ちで呟くけど、

そんな感想は求められていない。知ってる。

 

じゃあ何が言いたいのかというと、

生きづらさを抱えてる人が、同じように生きづらさは感じているけれども

私はこうやって生きています、と言ってくれる存在があることは、

救いだと、私は思う。

 

こういうアプローチもあるよ!だなんて、自由に生きている人を見たら、

眩しいけれど、それは暖かさを感じることも出来るのだと思う。

 

 

ただ単に自由に生きている人ではなく、

模索して、見つけたから、あなたにも見つかるといい、と

そっと背中を押してくれるような人が、好きだ。

その人は私より多分努力して、多分運も良くて、今の場所を手に入れたから

私は妬んでいる部分も少なくともある、かもしれない。

私のことを努力不足だ、と鼻で笑うような人かもしれない。

それはわからない。私は、その人のほんの少しの面しか見えていないのだから。

100%の善人なんて、いるとは思えない。

きっと皆、自分が一番大事だ。

私もこうやって書いていることで、自分が一番大事だと再認識している。

 

書くことは私にとって、私がここに居たという記録を残したいだけの話で、

私の頭が私の指を動かして、私の心が私の指を動かして、

文字を綴っている。何も考えず、書き出している。

それができることは、私にとって、唯一の救いであり、

それを奪われたら、もうどうしていいのかわからないから、

ここにこうやって書くことを、許して欲しい。

 

誰かにずっと、見つけて欲しい。

負けそうになる

今日も、何度も何度も、帰り道に己を呪った。

暇だから悪い方へ考えてしまう、と思ってゲームをしていても、

移動でぼんやりすれば、思考はそちらへ引きずられる。

 

逃げたいんだ。

早く楽になりたいんだ。

逃げたら、楽になれると思ってるんだ。

…逃げられないから。

この先一生、私には背負うものがある、

その覚悟が、私にはない。

認めたくないんだ。

甘えて生きていきたい。

 

つい、キャラが甘やかされるような漫画や小説を好んでしまう。

それを自分に置き換えているのかどうかはもうわからない。

ただ、無条件に受け入れてデロッデロに甘やかしているような人が出てくると

良くないとは思っていても好きになってしまう。

創作の世界だからいい、とはわかっている、つもり。

 

あちらへ逃げてしまえば、

こんな妄執に悩まされることなく、

無になれるはず、と思ってしまうから余計につらいのだろうか。

何を期待してしまっているんだろう。

もう、何も期待したくないのに。

 

誰かに何かを思うことも、期待することも、してはいけない。

自分がその期待に応えられないのだから。

…そう、自分に言い聞かせる。

でも言い聞かせても言い聞かせても、バカな私は、忘れて期待してしまう。

本当に、愚かだ。

 

今日も生き延びた。自分のことを褒めよう。

あっという間。

1日がめちゃくちゃ長いな、と感じる。

 

学生だった時。授業中。いつもノートの隅っこに絵を描いては消し。

時間が過ぎるのを待っていた。

 

立ち仕事のバイトの時。

お客さまが来なくて暇な時、ぼーっと作業をしているとき。

まだこんな時間か…、と小さくため息をついていた。

 

仕事中。

あと少し、もう少しで定時なんだけど、

そこまでがとても長く感じたりする。

 

でも家に帰ってきて、だらりだらりと

ソシャゲーのログボ回収をしたり、晩ご飯を食べて、

ネサフをしているとあっという間に夜中になっている。

正直ビビる。

まだ何も終わってないのに、もう明日が来てしまう。

日付は変わってしまってる。

そんな瞬間が、とても疲れる。

 

何にもない、空っぽの、

世間から必要とされていない私が、

お金を払って、必死にライブやイベントに足繁く通うことは。

傍から見ればきっと愚の骨頂なのだろう。

実際にそんなことを、言われることがある。

その度に私だって、好きでこんな人生になった訳ではない、と

言い返したくなる。反射で。

でも選んだのは間違いなく自分自身だから、

好きでこの人生を選んでいるんだ。結果的には。

 

これから先のつらいことを考えると、

死んだ方がマシだ、と何度も何度も、節目節目に思ってきた。

その度に無様にも生き延びて、

さんざん周囲に当たり散らして、喚いて、生きている。

多分、そういった変化に、自分の心がついていけないのを

誰よりも私が分かっているから、

自分でコントロールが出来なくなって、周りに迷惑を掛ける前に、

死んだ方がましだ、と思ってしまう。

生まれてこなければ良かった。

こんな風に言うと、生きたくても生きられない人はたくさんいる、と

反論されてしまうかもしれない。

言いたくなるその気持ちはわかる。

私は私の人生に、誠実に向き合えていない。

そんなに、楽しかったり、嬉しかったり、報われたり、

求められたり、したことがないからだ。

だからつまらないな、と思ってしまう。

厨2病だと笑われても仕方ない。

私はずっと、教室の、窓際の一番教卓から離れた場所で、

校庭を見下ろしながら、やれやれとため息をついているようなものだ。

羨ましい。生きたいと思えることが羨ましい。

 

私と、そうやって反論してくる人は、互いに無い物ねだりなんだ。

あげられるものならあげたい。

どうぞ楽しんで、と、私の寿命を分けられるものなら、と。

それがどんなに失礼な発言だとわかっていても、

言ってしまいたくなるぐらいには、もう私も弱っている。

 

たとえば同じように弱音を吐いている人が居るとき、

私はその人になんて声を掛けたらいいのかわからない。

私は、弱音を吐いていても、それは誰かの意見を求めたり、

別によしよしして欲しいわけではないからだ。

もう、抑えきれないから、こぼれてしまっているだけで、

誰かに同意してもらいたいわけでも、反論してほしいわけでも、ない。

だから何といったら正解なのかがわからない。

そばに居て欲しいと言われたらそばにいてあげることはできる。

くだらない話をして、と言われたら一晩中だって付き合う。

でも、私は、そうやって「求められないと」「あげることができない」。

 

自分に自信が無いから、必要とされないと、近付くことすら出来ない。

口癖が「逃げたい」の女に、果たして、この先

自分次第で、人生ハッピー!なんて思える日が来たとしたら、

それはもう、ちょっとした天変地異の前触れなんだと思う。

 

今日も一日、お疲れ様でした。

ゆっくりお風呂に入って、また明日も、起きよう。

変わることへの抵抗

(昨日書いた記事に、スターをつけてくれた方、

どうもありがとうございます。

はてなブログ、ずいぶんと登録してから経つけれど

スターの仕組みは全く分かっていないから、たまにつくと驚くけれど、

嬉しいです。ありがとうございます。)

 

何かをきっかけに、価値観は変わることがあると思う。

 

たとえば学生であれば進学したり、社会人になったり。

恋人に出会ったり結婚したり、出産したり、離婚したり、

人の死に直面したり。

もっと小さな事でも、些細なことでも、

タイミングはたくさん。ほんとうにたくさん。

 

このタイミングがチャンスと思うのか、

悪い方に、価値観をがんじがらめにするかは

何が「そうさせる」のかはわからない。

 

たとえば今までの出会ってきた人の言葉であったり、

それこそ「それまでの価値観」が、

脳の中にこびりついて剥がれないようであれば

悪い方向へ悪い方向へ、価値観が歪んでしまうのかもしれない。

 

人は変われる、とみんな言うけれど

(みんなって誰だ、とかはおいといて)

その「変化」が良いものか、悪いものかは

変わってみないとわからなくて。

そんなタイミング、遭遇しない方が、

「悪いモノ」になってしまうタイプの人にはラッキーなのかもしれない。

 

私は残念ながら悪い方へ、悪い方へ

真っ黒に焦がした鍋底のような心へと変わってしまった。

タワシで強めにこすればこするほど、嫌な音を立てて、

鍋の底である心もぼろぼろになるし、

タワシの役目を果たす人たちもぼろぼろになる。

 

「自分次第で良いようにも悪いようにも人生は受け止められる」とは

確かにそのように出来ているのかもしれないけれど、

好んでネガティブになる人はいるのだろうか。

好んで卑屈になって、他人を傷つけるような暴言を吐く人間に

なってると思っているのだろうか?

…私は、好き好んでこんな愚かな人間になったつもりはない。

 

でもどこで間違ったのかはわからないし、

もう、どこを直せばいいのかわからない。

たとえば私がコンピューターなら、今はエラーを吐き出し続けて

みんなのトラウマ音と共に小窓がボンボン出続けていて

何も操作ができないような状態。

コンセントを引っこ抜くしかない。

 

楽しいことを楽しめなくなるような、間違った価値観を

好んで手に入れてると思っているならばそれこそ「間違ってるよ」と

訂正したい。

ひとつひとつは些細なズレで

それがだんだん大きくなっていって

修正不可能なところまで来てしまった。

それは多分私のせいなのだろう。私が、何かを間違ってしまったんだろう。

 

だけどそれを今更責められても、

何年前に戻ってやり直せばいいのかわからない。

わからなくて困っているのだ。

「変わること」を恐れているというのは、

もはや「どこを変えたら正常になるのか」が判断できなくて、

困っている、と言った方が正しいのかも知れない。

 

正常な回路に戻してくれるようなモノに出会えていないだけ。

そう思う。

こういった他力本願なところも、また間違った価値観なのだろう。

 

もはや何が正しくて、自分が何を主張したいのかもわからなくなってしまった。

夜は長い。